祖母が好きな『天才!志村どうぶつ園』を私が嫌いな理由

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 久しぶりに実家に帰って祖母に会って話したら、よく見るテレビ番組の話題になった。なんでも祖母の最近の一番のお気に入りは『天才!志村どうぶつ園』で、見ながらよく泣くのだという。それを聞いて「ふーん」と曖昧な相槌を打ったのだが、内心では「どうして、そんなくだらない番組が好きなのか」と呆れ果てていた。

 

 『天才!志村どうぶつ園』は最も俗悪なテレビ番組のひとつだと思う。なぜなら私が嫌いなテレビ番組の要素をほぼすべて揃えているからだ。過剰なテロップ、過剰なナレーション、VTR中ワイプに芸能人の顔を映すところなど、本当に俗悪な演出ばかりだ。

 

 そして見るに堪えない一番の原因は、あの出演者たちの善良な演技である。志村けんを含め、他のバラエティ番組では際どい下ネタや毒舌で売っているような芸人たちも、あの番組では優等生的なことばかりを言う。みんなあの番組では意図的に毒を抜いて喋っている。それがこの番組の視聴者たちの自意識をそのまま表しているようで気持ち悪い。

 

 「動物を飼っている人に悪い人はいない」なんて、ペットを飼っている人はよく言うが、もちろんそんなことはあり得ない。それはうぬぼれた自己認識をそのまま自分と共通項を持つ他者一般に投影しているだけだ。

 

  そもそも動物を買うという行為自体、「本当に動物のためになるのか」と疑問視されて然るべきなのだが、その事に全く考えの及ばない人たちが善良であるなどということがありうるだろうか。

 

  私の判断では、『天才!志村どうぶつ園』という番組は、そういったことに対する「反省」の量・質が他の番組と比較して圧倒的に足りていない。というか、そういった「反省」を視聴者に意識させないとめに、あえて善良な作りをしている。それが本当に気持ち悪い。

 

  祖母のような老人や子どもたちにとっては、そういった無反省や善良さが魅力なのだろうが、ああいう番組は視聴者をバカだと思ってなければ作れない。そういう番組を身内が好き好んで見ていると考えるといたたまれない気持ちになる。

 

電通の先輩が、『CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ。この会社にいる時点で普通ではないと自覚しろ。世間にはおそるべき量のおそるべきバカがいる。そしてそれが日本の「普通の人」だ』って言ってたの、一番役に立ってる教えの一つだ」

はあちゅう (@ha_chu) | Twitterより

 

 『天才!志村どうぶつ園』は、純粋に、こういう考え方に則って作られたテレビ番組の典型のように私には見える。

森友学園関連の話題を追って思ったこと

森友学園の件。現在まで、とくに自分から調べなくても何度となくこの話題をフォローしている人たちのツイートから情報が流れてきて、それを眺めていたのだが、一番強烈に印象に残ったのは、これを話題にしている人たちの節操の無さだった。

 

自分も数日前までは森友学園なんてまったく聞いたことが無かった人間のひとりである。この名前を最初に見たのはtwitterで、著名な学者が菅野完の呟きをリツイートしたものだったと記憶している。

 

最初から安倍総理や総理夫人と学校法人との関連性を匂わせて、炊きつける・煽るような内容のツイートが多かったのだが、具体的に総理が経営や創設に関わっているという証拠は無かった。

 

そしてその後に上げられた、彼らが関係性を示す証拠だと主張するもののほとんどが、印象操作以上のものでは無いのには、正直呆れた。

 

別に件の学校法人に問題が無い訳ではなく、取引に当たった財務省や国の体制は大いに問題視されるべきだと思うが、総理と関連付けて問題視されるべき話題であったかは疑問である。

 

あわよくば与党批判に繋げようという意図があったのだと思われるが、マスコミの食いつきは鈍かった。

 

それも当たり前で、総理との関連性で話題を広げだとして、そのことに対する十分な裏付けが無ければ取り上げたメディア自体の信用度が下がる。その点、個人がツイッターで印象操作を行うのとは全く事情が違うのである。

 

ただ、そもそも個人であれば、あるいは政権批判が目的であれば、悪辣な印象操作やデマまがいが許されるのだろうか、と疑問に感じた。あるいは、それをある程度予期しつつリツイートする人たちは全く責任を問われないのか、ということ。

 

そういうことで、自分の政治への抵抗感・嫌悪感はより一層強くなった。

優先席を使うべき人が使わないことによる不利益について

私が駅構内・車内で体験したモヤモヤ

今日、電車の中でモヤモヤしたことが2つほどあったので書いておきたい。

1つ目を事例A、2つ目を事例Bとしよう。

 

■事例A:足の不自由なおばあさんの例

ある駅で、列に並びながら乗り換えの電車を待っていた。しばらく待っていて、いよいよ電車が所定の位置に近づくと、私のすぐ後ろに並んでいた杖をついて腰の曲がったおばあさんが真後ろから私の隣に位置を変えた。そうしてそのおばあさんは、ドアが開くと、一目散に電車内に入って、空いていた一般席に座った。私たちが入ったドアは優先席の近くで、昼間の車内には空席が多くあり、もちろん優先席もガラガラの状態だったがそのおばあさんが座ったのは一般席だった。その後からヘルパーさんみたいな人が入ってきて、おばあさんの前に立った。

 

事例B:ベビーカーに子どもを乗せた3人の母親たちの例

事例Aのあとに、3人の母親が電車内に入って来た。3人ともベビーカーに赤ちゃんを連れていた。車内のほとんどの人たちは座っていて、3人分の空席もあったが、その女性3人は車両中央のドア前に陣取り、ぺちゃくちゃ喋って動かなかった。もちろんベビーカーは畳んでいないので、ドア前の空間を占有する形になっていて、そこを通る人にも、そのドアから降りる人にも邪魔になっていた。

 

モヤモヤの正体

上の2つの事例に関して私が感じた不満は「なぜ社会的弱者と言われる人々が優先席を使わないのか」ということである。健常者が障がいを持つ人々に配慮すべきだ、というの思想は優先席をはじめとした多くの福祉サービスの前提となっている。だから優先席に座るべき人が座る意思を見せないと、いろいろな不具合が起こるのだが、一般的に社会的弱者と言われる側にそういった意識が共有されていないように見える。

 

こういう指摘って障がい者や 幼児を抱えた母親とかではない立場、社会的弱者ではない立場のエゴなのか?

 

事例Aの場合、おばあさんが無理に一般席に座ろうとして他の乗客と衝突したら、双方が損害を追う恐れがある。またおばあさんの足が不自由だという情報が、後から乗る客に共有されないこともトラブルの種になりうる。その点、優先席に座ってくれれば、周りの人間は状況を早く察することができるから安心だ。

 

事例Bの場合、母親たち陣取っているドアからは乗客は容易に入ることも出ることもできないし、また側を通るにもベビーカーや母親たちのいずれかにぶつかってしまう。ベビーカーを折りたたむ必要は無いから、せめて座席の前に立つか、優先席付近にいてほしい。

それぞれ理由はあるのだろうが…

なぜ優先席を利用しないのかは、本人たちにとって正当な理由があるのだと思う。でもその正当性ははたして、彼ら/彼女らが以外の人間が耐え忍ばなければいけないリスクや苦痛の量を上回っているものなのか。

 

私には、そういった優先席を使うべきなのに使わない人たちが、周りの人間に要求している配慮の量が、社会正義から許容される量を超えているように見えた。

 

こういった主張をした場合、「優先席を使用することデメリットもたくさんある」という反論があるのは、何となく予想できるが今回の事例はそれには当てはまらないのではないか。

 

以上が今日のモヤモヤ体験でした。

 

 

おっさんの音楽の楽しみ方―RADWIMPS『いいんですか? 2017 ver.』

 よくYoutubeで、最近のいろんな音楽を聴いている。「あ、これあの曲のあのメロディに似ているな」とか「この歌い方はあの人に似ているな」と思うことが、年齢を重ねるに連れて多くなってきている。

 

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 自分と同世代ならば、この歌い方を聞いてケツメイシを思い浮かべない人はまずいないし、2番からは三木道山や湘南乃風っぽくなる。そしてサビはGOING UNDER GROUNDっぽい。別にそれはそれで悪くないのだけど、Youtubeのコメント欄にそういうことが全く書かれておらず、全肯定されているのを見るとモヤッとする。

 これがおっさんの面倒くさいところで、何かが良いという場合にも別の何かが頭に浮かんで、それとの比較で褒めなければいけない、という自制が働く。だから「いいものはいい」とは素直に言えなくなってしまう。

 この曲はとても良い曲だとは思うのだが、オリジナリティは無い。面倒くさいおっさんの私はそう思う。

back number『ハッピーエンド』に期待する2017/01/20の『MUSIC STATION 2時間SP』事前レビュー

2017/01/20の『MUSIC STATION 2時間SP』で披露される曲の一言レビューをしてみた。

 

レビュー

INABA / SALAS『AISHI-AISARE』new

MVも曲も驚くほど退屈。B'zや稲葉浩二のファンは喰いつくだろうけど、一般の人に届くほどの訴求力は無い。


KinKi Kids薄荷キャンディー』(03)

スローなバラード風の曲。雰囲気は良いが、そこまで特徴のある曲ではない。2000年代前半だとふたりともそこそこ歌唱力があるので、今どこまで歌えるのかが見どころ。


KinKi Kids『もう君以外愛せない』(00)

有名な『夏の王様』のカップリング曲。カップリングの割には良いメロディ、よい歌詞だと思う。


グリーンボーイズ『キセキ』new

GReeeeNのカバー曲。この曲調が今流行るかは疑問。

 

グリーンボーイズ『声』new

GReeeeNのカバー曲。オレンジレンジケツメイシをミックスしたような曲。切ないメロディとポジティブな歌詞。『キセキ』同様、尖ったものがない。


西野カナ『Dear Bride』(16)

2016年の紅白で歌っていた曲。結婚ソング。PVの西野カナが奇跡的にかわいい。


西野カナ『トリセツ』(15)

2015年の紅白で唄っていた曲。結婚ソング。PVの西野カナが奇跡的にかわいい。

 


back number『ハッピーエンド』(16)期待

優しい良い声をしていると思う。系統としてはレミオロメンに近いのだが、それとはまた違った魅力がある。PVはチオビタとかのCMっぽくて良い感じ。


舞祭組『道しるべ』new

CDTVのライブを見たけど、よく分からない。あんまり歌はうまくないし。歌も笑いを狙ってる感じだけどそこまで面白くもない。


ブルーノ・マーズ『24K Magic』(16)

PV見たけど、日本とは金のかけ方が違う。成金ぽさを全面に出したファッションで確かにダサいんだけど、同時にかっこよくも見えるのは黒人の特権なのか。

 

ブルーノ・マーズTreasure』(13)

『サタデー・ナイトフィーバー』の時代を思わせるような曲。歌い方がマイケル・ジャクソンっぽい。

 

まとめ

今回の一番期待しているのはback numberの『ハッピーエンド』。ボーカルの声が良い。次点でブルーノ・マーズ。安定したパフォーマンスが期待できる。

 

ハッピーエンド(初回限定盤)(DVD付)

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24K MAGIC

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嘘松はどこへ向かっているのか

 最初期は嘘か本当か分からないような、創作臭のするBL関連の発言をtwitter上でつぶやいた人が「嘘松」と呼ばれていた。最近は事情が変わってきたように思う。いまはもっとフランクに、そして曖昧に、「嘘松」という言葉が使われ始めている。

 

 

 嘘松という名称は、もちろんアニメ『おそ松さん』のタイトルに引っ掛けたもので、そういった作品を愛好する腐女子たちをバカにする意図があったということは間違いない。

 

 それは普段、腐女子という存在に違和感を持っている人たちにとって、とても便利な言葉だったのだと思う。なぜなら創作実話ツイートを嘘松と結びつけることで、腐女子=嘘つきというレッテルを貼れるからだ。そういった腐女子への反感や悪意が、ここまで嘘松という言葉を一般的なものにした。

 

 ただ一般化が進んだ結果、発言の主体が腐女子であることや、BLに関係するという要素は重視されなくなってきていて、蔑称的な意味合いは徐々に薄まってきているようにも見える。

fesoku.net

 

 もしかしたら今は過渡期で、将来的には、嘘松という言葉からは腐女子やBLに関連する要素は一切消えて、単にtwitter上の創作実話ぐらいの意味合いになるのかもしれない。

 

 ただ一方で、創作実話が腐女子によって今後もツイートされ続けるということはほぼ断言できる。自分の観測範囲の話で申し訳ないのだが、それくらい腐女子の自己顕示欲は並大抵のものではないのだ。

 

 

バカにする人にこそ聞いてほしいMr.Childrenの『雨のち晴れ』

 ミスチルMr.Children)と言えば、好きだと言えば馬鹿にされるグループの代表格みたいな存在だけど、彼らの曲に限って言えば、私はそういう馬鹿にされるタイプの曲の方が好きだ。高尚なものなど求めていないので、ファストフードみたいに「旨い!安い!早い!」曲を提供し続けてくれればそれでいい。だけど、ある時期からのミスチルはそういう曲を全然作歌ってくれなくなったので悲しい。

 

 ミスチルの中でどの曲が一番好き?と聞かれても、自分でも把握してないのでちゃんと答えられないのだが、『雨のち晴れ』という曲は間違いなく5本の指に入るくらいに気に入っている。とは言っても、この曲、『終わりなき旅』や『名もなき詩』なんかに比べると、全然有名じゃない。でも、ファストフードっぽさが非常に強くてそこに魅かれている。

『雨のち晴れ』

www.youtube.com

 90年代のトレンディ・ドラマをそのまま一つの曲にしてみました、という感じの物語性の強い曲だ。あるいは久保ミツロウのマンガにありそうなスト―リーと言ってもいい。現在のミスチルもそうだけど、こういう歌詞の曲って全然聞かなくなった。20代・30代男性労働者のために作られた曲っていうのが、最近はほとんどない。

 

 それはもしかしたら、よく言われている女性の社会進出やなんかで、そういったニーズの中心が男性から女性に移ったからなのかもしれない。確かに、最近のテレビドラマは女性を主人公にしたものが多く、しかも高視聴率を取っている気がする。

 

 まぁ、それは置いといて、肝心の歌詞の内容だけど、この歌詞は地味に凝っている。まず1番、2番、3番とあるのだけど、この中に複数の時制があって、最近のことを話してたと思ったら急に昔の話になったりして、これが映画でいうフラッシュバックみたいに効果的に作用している。では、1番から順に時制に注目して追っていこう。

1番の歌詞

単調な生活を繰り返すだけ~

(略)

~部屋でナイターを見よう

  主人公は現在の日常生活を「単調」だと言っているが、その状態を肯定しつつある。親友との約束をキャンセルして、部屋でナイターを見るくらい人間関係に対して疎かだ。

あの娘が出て行ったのはもう3か月前~

(略)

~あれほど燃え上がってたふたりが嘘みたい

 3か月前、同居していた彼女と別れたが、そのことについて強い感情は湧かなかった。昔あれほど愛し合っていたのが信じられないほどだ。

最近じゃグラマーな娘にめっぽう弱い~

(略)

~まるで手ごたえがない

  最近、女性の好みが変わったらしく、グラマーな娘が好きだ。(3か月前別れた彼女はグラマーでは無かった?)新人のマリちゃんはグラマーだが先輩の自分が言い寄ってもまるでなびく気配はない。

不景気のあおり受けて社内のムードは~

(略)

~いっそ可憐に咲きほころうかと思うよ

  最近は世の中は不景気で、他のみんながピリピリしている分、新人に言い寄るくらいお気楽な僕の存在だけが車内で浮いてる。上司に愚痴言われるくらいが花だというので、愚痴を言われ続けても耐え続けるつもりだ。

もうちょっと 頑張ってみるから~

(略)

~今日は雨の日でもいつの日にか

 今日は雨(悪い状態)でも、いつか晴れる日が来るかもしれないので、もうちょっと頑張ってみようと思う。

 

2番の歌詞

お前って「暗い奴」そう言われてる~

(略)

~2羽のインコを飼う

  幼少の頃からずっと「暗い奴」って言われている。、ダイニングとキッチン(もう料理を作ってくれるあの娘はいない…)のある狛江(23区外)のアパートには、出ていったあの娘の代わりに2羽(つがい)のインコを飼っている。

たまに実家に帰れば、真面目な顔して~

(略)

なるべくいい娘を探したいって思っちゃいるけど

 (現在)たまに実家にに帰ると、母親に「孫の顔が見たい」みたいなことを言われる。普通、こういうことを言われるのは嫌なものだけど、(最近は)その気持ちが分かるようになってきた。

もうちょっと 僕を信じてみて

(略)

イメージはいつの日でも雨のち晴れ

  現実がどうであれ、自分の頭の中にはいつでも、雨のち晴れ(物事が良い方向に進む)のイメージがある。

 

3番の歌詞

優秀な人材と勘違いされ~

(略)

~頭を下げていた

 (入社した当初)優秀な人材と勘違いされたことで、人間関係で酷い目に逢った。(今ではその勘違いは解消されたということ?)

若さで乗り切れるのは~

(略)

~誰も分からない

(入社してから今までは)若さで乗り切ってきたけど、それも今年までこの先(将来)どうなるかなんて誰も分からない。

その日暮らし 楽しく生きりゃ~

(略)

また日が暮れる

  その日が楽しけりゃそれでもいいのかもしれないと、そんなことを考えはするのだけど、なにもできずに毎日が過ぎていく

もういいや 疲れ果てちまった

(略)

今日は雨ふりでも いつの日にか

  疲れたとは言いながらこれまでもやってきた。今日は雨でもいつかは変わるかもしれない。 

もうちょっと 頑張ってみるから

(略)

イメージはいつでも雨のち晴れ

いつの日にか 虹を渡ろう

  頭の中では良くなるイメージがあるので、もうちょっと頑張ってみる。いつの日にか、虹を渡るぐらいにうまく物事が進むだろう。

 

まとめ

 ここまで読んできて、なんとなく分かったと思うが、この曲の歌詞はある種の自己啓発みたいな内容を含んでいる。今は悪い状態かもしれないけど、ポジティブに、自分を肯定して生きていけば、きっと良いことがあるよ!、みたいなことを歌っているのだ。だから、この曲を嫌う人がいる気持ちも分かる。私もそういう歌は嫌いだ。

 

 だけど、この歌にはリアリティがあるので、そういったうさん臭いものと一定の距離を置くことに成功していると私は思う。つまりメッセージをただ単に歌詞として書き連ねるのではなく、そこにテレビドラマのように明確な輪郭を持った登場人物を出演させることで、メッセージに説得力をもたせ、軽薄さを感じさせないようにしているのだ。これが90年代のミスチルが成功した大きな理由だと思う。

 

 問題は2000年代後半以降のミスチルからは、ほとんどこういった魅力が消え失せてしまっていることだ。その結果、自己啓発的なうさん臭さや説教臭さだけが残ってしまった。このことが個人的には悲しい。ポジティブなことをひたすら吐いてるだけじゃ、そこに説得力が生まれないので、曲はどんどん空虚なものになる。

 

 この点に関してミスチルに期待するのはもう無駄な気がする。一時期のポルノグラフィティがそういう曲を作っていたが、彼らももう旬は過ぎた感がある。だから実質的には今男性の労働歌、それもある程度ポップでロマンチックなものを歌える人はいない。ここにぴったりフィットする人が現れれば、めちゃくちゃ売れると思うんですが、いかがでしょうか?

 

追記

 労働歌でググったらこのサイトにたどり着いたんですけど、確かに『「恋するフォーチュンクッキー』は、女性目線であるものの、素晴らしい労働歌だと言えますね。

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