大学中退から10年以上かけて回復した話 高校編その1

 今日資格試験を受けるためにに10年以上前に中退した大学に行った。とはいっても1年前に大学の敷地内には足を踏み入れている。ただ今回は試験会場に大学の教室が指定されていたので、建物のなかに入った。その教室というのが、自分が毎日のように講義を受けていた教室だった。

 教室に入った瞬間感じたのは、全然変わっていないな、という平凡な感想だった。感傷的にはならなかった。教室での思い出がなにも思い浮かばなかったので、教室に入ることにためらいはなかった。忘却の力というのは凄いものだと思った。

 退学前後の私の感情はぐちゃぐちゃだった。退学前に1年以上引きこもりの期間があった。今振り返ると1年ちょっとの引きこもりなど大したことないと思えるのだが、当時は焦燥感が凄まじかった。大学に通わなくなったというより通えなくなった。生きていて初めて精神の限界を感じて、心がぷつんと折れてしまった。

 今日、午前の試験を終えた後にふと自分はなぜ退学したのだろうと考えた。5年前は退学した件について考えるのが嫌だったが今日はその感覚がほとんどなかった。だからなぜ大学に行けなくなって退学したのか、という問題に初めて向き合ってみようという気持ちになった。

 退学の起点がいつかはというのは難しい話だ。高校2年生でテニスの部活を辞めたところまでは遡ることができると思う。テニスを辞めたきっかけは部内の入れ替え戦で1軍から3軍まで落ちたことで、それをきっかけに私はテニス部からフェードアウトした。多分高校2年の秋だったと思う。部活を辞めた時点では受験勉強に力を注ごうと思っていたが、勉強はまったく面白くなく成果も出なかった。

 そうして文学に熱中した。最初は芥川や開高健大江健三郎が好きだった。村上春樹は『ノルウェイの森』に全くピンとこなかったが『1973年のピンボール』でハマり、買えるだけの文庫を買い集めた。次に『堕落論』の坂口安吾に自分を重ね、暗く厭世的な考え方が染みついた。高校3年になるころには頭の中は完全に、陰気な文学青年なっていたと思う。

 生活の中心だったテニスを辞めたことで精神状態は急激に悪化した。メンタルの悪化は様々なところに悪影響を及ぼした。遅刻が増え他人と接するのが恐ろしくなり授業中の尿意や便意、お腹の音が鳴る羞恥心で授業に集中できなくなった。今から考えると、うつ病の一歩手前で、なおかつ過敏性腸症候群だったと思う。当時はその手の知識が全くなかった。

 メンタルの悪化と厭世的な文学は、人間関係に極めて悪い影響を与えた。積極的に友人から遠ざかり、誰とも話さない日が毎日のように続いた。それは文学を読んでいる自分が高尚な存在だと感じていたからである。坂口安吾の『堕落論』の影響も大きかった。坂口安吾のすべてを疑う姿勢に深く共感し、わたしも自分の周りの存在をすべて疑った。

 結果、笑えなくなった。笑いが不快なものに感じられ、笑いが起きると自分が笑われているという被害者意識を持つようになった。完全に精神的におかしくなっていた。でも、それを指摘するものはだれもいなかった。今のようにメンタルヘルスの知識があるものがだれもいなかった。2000年代半ばというのはそういう時代だった。

在宅勤務の影響、民営ジム、映画 ー2021年8月

 9月から3人の同僚のうちひとりが在宅勤務になった。自分と先輩で会社に残って業務を続けることになって精神的にキツイ状況が続いた。先輩は後輩をいびるタイプで、在宅になった同僚の目が届かなくなったことで、コントロールができなくなっていた。感情的な怒られことが続き耐えられなくなったので、言動をメモって上司に報告しようと考えたが、9月中盤になって怒られる回数が少なくなりどうにかやりすごすことができた。

 

 9月中盤を過ぎたころに民営のトレーニングジムと契約した。これまで使っていた公営の事務がコロナの影響で休止したため、その代役として初めて民営のジムを使うことにした。いくつか民営ジムのHPを確認したところ、2か月間無料のキャンペーンを行っていたFに入会することにした。

 

民営ジムFの良いところは

  • 土足でトレーニングできる
  • ボディソープ・シャンプー、タオル付のシャワーが使える
  • 24時間使える
  • アルコールのティッシュが使えるので衛生的

ことである。

逆に悪いところは

  • 狭いので少しの人数でも混雑する
  • あまり立地が良くない
  • とても正規の月額料金を払う気になれない

ことである。

いまのところキャンペーン期間が終わったら大会するつもりだ。

 

9月見た映画だと『返校』が微妙で、『OLD』がまあまあ、『空白』がよかった。

『返校』は国家による抑圧という題材をうまく消化できていないように感じた。

一方『OLD』は加齢にまつわる家族の問題をうまく扱っていたが、全体的に演出が鼻についた。

『空白』はキャラクターの作り方がうまかった。ただ題材としてはそれほど好きになれなかった。

9月の映画は小粒だったと思う。

ワクチン、葬式、オリンピック ー2021年8月

  8月は忙しかった。いや、正確には7月の後半からか…

 

 住んでいるところがかなり田舎なので、65歳以下でも早々にワクチン接種を受けられた。しかし、ワクチンを受けたら受けたでいろんなことができなくなった。というのも、母がそういうことには人一倍うるさく、あれこれ言われるのが嫌なので何か言われる前に外出を控えたりした。その結果、それまでルーティーンとして毎日やっていたジム通いや勉強もできなくなってしまった。大きな誤算だった。

 

 それだけにとどまらず、2回目のワクチンを受けてから数週間後に祖父がワクチンを受けたいと言い出し、送り迎えなどをしなければならなくなった。さらにその数日後、親族がなくなり1週間ほどは火葬や葬儀で忙しく会社も休まねばならなかった。式ではよく知らない人と交流せねばならず人疲れした。

 

 コロナの実害があったわけではないのに、厄介な1か月だった。今振り返ると、この1か月を乗り越えられたのは、五輪による部分が大きいかもしれない。五輪の期間中は気分が落ち込まずに済んだ。ふつうの精神状態ならコロナ禍の五輪に乗れなかったかもしれない。でも、そのときの精神状態には異様にフィットした。

 

 それでも開会式と閉会式は見れなかった。父と母がリビングで見ているので視界には入ってくるのだが、ちょっと見ただけで「あーこれはダメだ」と判断できてしまうような内容だった。こういうものが日本の文化芸術の集大成として世界から見られていると想像するとゾッとしてしまった。

 

 たぶん世の中の仕事には外注でどうにかできるものとできないものがあって、文化や芸術は外注でどうにかできないものなのだと思う。そして日本は外注できないものを扱うのがとても下手なんだろう。だから組織の内部で人を育てなければいけないのだが。そこにリソースを割こうとする人が少ない。五輪の開会式・閉会式には日本の問題がたくさん詰まっていると感じた。

シンエヴァンゲリオンの凡庸さ

【ネタバレあり】

 

 

 

 シン・エヴァンゲリオンの前半を見ているときはずっと泣いていたが、理由は自分でも分からなかった。

 

 今振り返ると、それはエヴァで描かれるはずがないと思っていたシーンに対する涙だったのだと思う。凡庸な物語が、凡庸な風景のなかで展開する。これまで凡庸さを遠ざけてきたエヴァが、その境地にたどり着いたことに感動した。

 

 序や破の舞台となる第三新東京市でも日常は描かれていたが、それは使途が襲来する脅威と隣り合わせの「非日常の中の日常」だった。一方、今回の映画の舞台となる第三村は差し迫った脅威がない。

 

 恵まれた環境の中、綾波レイのクローンは労働や住民とのコミュニケーションを通して人間的な成長を遂げ、シンジはアスカやレイ、昔の友人に見守られて鬱状態から回復する。この辺の時間の流れ方に製作者の善意を感じた。

 

 正直、映画としての質という観点から言えば、もっと良い結末はいくらでもあったと思う。しかし登場人物に敬意を表するという観点から言えば、これ以上の終わらせ方はなかったのではないか。

 

 エヴァンゲリオンというシリーズが「終わる」のではなく「終わらせる」。そういう決意が強く伝わるのが良かった。

仕事がきついので吐き出す

仕事がきつい。

 

1月上旬から勤務している。最初は雑務の研修から始めた。研修と言ってもOJTが基本でがっつり学べる機会はなかった。そして一番難しかったのは時間をどう潰すかということ。何をやっていいのか分からないし、自分の未熟な知識で勝手に仕事を進めるのも良くない。「手持ち無沙汰なのでなにかやることをください」というのも迷惑だろうと思ってなかなか言い出せなかった。結果なにをやることもなく、とりあえずマニュアルを見ることに多くの時間を費やしていた。でもこの期間は正直楽だった。

最近は専門性のある仕事を外部の専門家から教えてもらっている。しかし部署内で初めて手を付ける仕事を外部の人から教えてもらっているのはすごく気を遣う。そしてなぜ自分が研修を受けているのかもよく分からない。自分よりずっと前から社内にいるメンバーがまず研修を受けて私に伝えてくれればいいのと思う。社会の指導者とも関係性をすでに構築できているはずだから、そちらの方が楽なのではと思うがそうもいかないらしい。この辺は会社の理不尽な部分である。

 

そういうわけで毎日へとへとである。いつか楽になる日が来るのだろうか。今は何も信じられない。

ブログの今後についてとか

このブログは最近ほとんど更新していない。その理由はブログを書く理由がなくなったためだ。twitterが世間に浸透してからも私は頑なにやっていなかったのだが、ある機会に始めてから数年もたつと気持ちを吐露する場所としてブログよりもtwitterがふさわしいような気がしていつの間にか全くブログを書かなくなってしまった。自分のような人間は世の中にゴマンといて、私もその中の一人だったわけだ。

 

 そんなめったに更新しないブログにも訪れてくれる人はいて、たまにアクセス数を見ると意外に多くて驚くのだが、そのアクセスは一部の記事に集中していることが分かる。top3は以下のようになる。

  1. 銀魂』が嫌いな理由を書くには良い時期だと思ったので
  2. 椎名林檎の『長く短い祭』のPVが素晴らしい
  3. 「七色シンフォニー」と「DAN DAN 心魅かれてく」の奇妙な類似

これらすべてが書いた労力に見合っているかというとそうでもない。例えば1位の銀魂の記事などおそらく全部書き上げるのに1時間もかかっていないだろうが、2位の椎名林檎の記事は確実に日をまたいで書いているし推敲も重ねている。一方で3位の記事に関しては、曲を聞いたのをきっかけに単なる思い付きで書いている。多分書き上げるのに39分と懸かっていないのではないか。このように書いた労力とアクセスとは比例しないことが分かる。

 

また上の3つの共通点を上げるとすれば、すべて作品に対する感想であるということだ。ちなみに1位はディス、2位は賞賛、3位はディス寄りである。ディスの方がウケが良い。

 

ということで、このブログでは作品に対するディスが伸びていることが分かる。私に文才があるとすれば、それは作品を批判的に最大限発揮される。だからこれからもどんどん作品を見てディスって行こうと思う。できればブログで。

東京事変の紅白初出場と1期2期問題、曲予想

東京事変の紅白初出場が決定した。

 

初出場と言っても、椎名林檎としての出場で何度か登場していたので個人的にこれといった感情は湧かない。

 

それに今回、東京事変が選出された理由にオリンピックが絡んでいることは間違いない。だからこの決定はある意味国策的なものと言える。

 

でも全く期待していないというわけでもなくちょっとは期待している部分がある。椎名林檎名義ではできなかったパフォーマンスが見られるのではないかという期待だ。

 

ちょっと自分語りをさせてもらうと私が東京事変を好きになったのはライブの映像を見たからである。今から約15年前、NHKで東京事変のライブ『Dynamite out』の映像を放送していて、圧倒された。曲に感動したことはそれまでもあったが、ライブの映像を見てあそこまで興奮したことは後にも先にもない。

 

そういうことで私は東京事変のファンになったのだが、ちょっと困ったのは『Dynamite out』の後、割とすぐにメンバーが変わってしまって、それが音楽性にまで影響したことだ。この「東京事変1期2期問題」は割と初期の頃から東京事変を好きだった人間は皆通り抜けねばならない、多少深刻な問題だった。

 

具体的に言えば1期メンバーの時に作られた『教育』はタイトルが示す通り、青臭さときな臭さが混ざったキラキラと輝くものがあるアルバムだった。しかし、メンバー入れ替え後の『大人(アダルト)』は洗練されすぎていて遊びが少なく、病的な印象さえ受けた。そして『娯楽 (バラエティ)』に至っては私は全く食指が動かなかった。

 

このように1期の曲とメンバー入れ替え後の曲では明らかな違いがあり、私の好きな曲の多くは1期に集中している。しかし、今のメンバーが2期の人たちなので、紅白で選ばれる曲も『大人(アダルト)』以降のものに限定されるだろうと予想できる。

 

ちなみに私に予想は

『透明人間』

『閃光少女』

『キラーチューン』

のどれか。基本的にポップな要素のある曲。

 

個人的に聞きたいのは

『化粧直し』

『手紙』

『夜明けの歌』

 

教育から選べるなら

群青日和

「母国情緒」

「夢のあと」

 

本当は「駅前」「入水願い」「修羅場」みたいなどす黒いのを歌ってほしいけど、このご時世では難しいかな。