大嫌いなあべりょうの動画を強制的に見せられる苦痛
本当にムカムカする。
この歌手の名前をブログに書くことは、その歌手の動画の再生数をアップさせることに繋がる可能性があるので、本当は書きたくないのだが、今日はあえて名前を出そうと思う。
その歌手の名前はあべりょうだ。
なぜ嫌いなのか
この人の曲は絶対に聞きたくない。それくらい不快に感じる。何が不快かというと、政治的な内容を、オブラートに包まず、美しい言葉で飾ることもせず、馬鹿の一つ覚えみたいに、直接的かつグロテスクに歌うからだ。これはイデオロギーがどうという問題ではない。芸の無さ、歌の下手さを、その時々に流行している言葉を並べ立てることでごまかそうとしている点が、ただただ醜いのだ。
見たくないのに…
ここまで書いてきて、「そんなに嫌なら曲を聴かなきゃいいだけだろ」と思う人もいるかもしれなが、それが難しいからこうやってブログで書いているのである。というのも、なんとこの歌手の曲、Youtubeの広告としてながれるのである。もう、たまったもんじゃない。
その点は多くの人たちが共有しているみたいで、Youtubeの公式チャンネル内の動画のコメント欄も似たようなことを書いている。つまり「動画を投稿するのは自由だけど、広告として掲載するのは止めろ」ということ。
Youtubeのシステムにも問題がある
今のYoutube広告はほとんどが、5秒間、視聴者に強制的に広告を見させるようなシステムになっている。それゆえ彼の幼稚で煽情的な曲の一部を無理やり聞かせられることになる。見るものにショックを与えるような言葉が、その5秒の間に必ず挿入されているのだが、目的の動画をみるためには、じっと耐えるほかない。つまり、フジテレビ的な『聞きたくなきゃ聞かなければ良いじゃない!』が全く通用しないのである。
なぜ、彼のような一般的にはそれほど名前が知られていないような(少なくとも私や私の家族がまったく知らない)歌手の曲が、Youtubeの広告として採用されているのかは謎だが、とにかくYoutube側に広告費をきっちり払っているからこそ、ここまで大規模な広告が打てるのであろう。
つまり金さえ払えば、ユーザーに不快なものでさえ見せられるようなシステムがYoutube内にあって、彼はそれを単に利用しているユーザーのひとりに過ぎない。ただ彼の動画は、その中で群を抜いて不快なだけである。
改善を求む
ニコニコ広告よるランキング操作もそうだけど、たいていの人が不快だと思うような動画を、カネ次第で、不特定多数に拡散できるようなシステムをどうにかなりませんか?もしくはそれを是正するような制度を導入しませんか?NGが一定数に達した段階で、広告の配信を一旦停止して、広告主側に改善を求めるとか、いくらでも方法はあるでしょう。
それもしないで今後もあべりょうの動画を見せ続けるというのなら、それは運営の怠慢と言わざるを得ないのではないか。
もう二度とあべりょうの歌を聴きたくない。見たくない。
ゲスと有能は両立する―安倍首相の「忖度」自虐ギャグの効果
安倍首相は17日夜、都内の商業施設のオープニングセレモニーに出席し、地元・山口県の物産も積極的に販売するよう「忖度(そんたく)していただきたい」と挨拶した。野党側は「森友学園の問題が終わったと勘違いしている」と批判している。
安倍首相「忖度していただきたい」笑い誘う(日本テレビ系(NNN)) - Yahoo!ニュース
「首相としての品位に欠ける」と左派が批判する気持ちは至極当然のことと思うが、個人的には感心してしまった。安倍首相はゲスだと思うが、こういうことは本当にうまい。
「忖度(そんたく)」は、森友学園関連で注目されて以来、「権力者の意図を組んで行動すること」ぐらいの意味で、主に現政権を揶揄する目的で使われてきた。森友学園問題は、主に安倍夫妻が関与している可能性があり、そこから政権打倒に繋げられるかもしれないという理由で盛り上がった。だが結局、関与を立証するような決定的な証拠が見つからなかったことから、一気に沈静化してしまった。
しかし「忖度」という言葉が脚光を浴び、人口に膾炙することになったことは、今回の一件で左派が得られた数少ない成果のひとつだった。内閣支持率はあまり変化しなかったが、政治家と官僚の間の汚れた関係を国民に印象付けることはできた。その成果の象徴が「忖度」という言葉の流行だったのである。
この「忖度」という言葉は、安部政権にとっての「目の上のたんこぶ」として今後数か月の間、ボディブローのように安倍政権をじわじわと苦しめるだろう。そのように左派や野党は考えていたはずだ。
実際、例年の傾向通りであれば、「忖度」は2017年度の流行語大賞に高確率で選ばれるだろう。そうなれば、野党はまた安倍首相や政権与党を批判する機会を得られる。年末に放送するような1年間の動向を振り返るようなテレビ番組も同様だ。だから、「忖度」という言葉は、左派にとって今年1年間は使い続けられるような、非常に都合の良い言葉でありつづけるはずだった。
しかし、北朝鮮問題によって、それまでのムードが一気に吹っ飛んでしまった。核爆発という現実的な脅威が、関心の中心として存在感を発揮するようになったことで、森友学園問題に対する世間やメディアの熱は一気に冷めてしまったのである。
安倍自身もこれを好機と、シリアの化学兵器使用などにも乗じて次のようなことを言って、積極的に火に油を注いでいる。
そして今回の安倍自身による「忖度」発言である。このタイミングが絶妙だ。こちらでは逆に、森友問題を引っ張り続ける人々に対して冷水を浴びせかけた。安倍自身が、これを自虐ギャグと言いだしてしまったら、もう政権批判の道具としての「忖度」という言葉は死んでしまう。それを実に適切なタイミングで、そして地元のイベントという批判されにくい場所で、さらにメディアに見せつけるようにやってのけた。
誰かの入れ知恵なのかもしれないが、この計画の緻密さと、計画を実行してしまう面の皮の厚さはさすがとしか言いようがない。それはある意味において、有能であると言っても良いと思う。スキャンダルや問題発言でイメージダウンする議員は、与党にも野党にもいるが、それを回避する能力という点においては、安倍に勝るものはいない。だからゲスであることと有能であることは両立するのだ。
90分でも長いよ。『ビジター』(2012)
ワン・シチュエーションものと、登場人物が少ない映画が苦手なので、だいぶ退屈だった。いわゆるネタバレ禁止系の映画なので、ストーリーについて深く言及しないが、まぁ、こういう結末ってあるよね。
物語は事故で息子を亡くした夫婦のもとに、ある日の真夜中、見知らぬ一人の若い女が訪ねてくるところから始まる。ふたりはこの女を家の中に受け入れるが、女が夫の素性を知っていたことから、夫婦の関係がぎくしゃくしだす。そんな中突然、ガスマスクをかぶった黒づくめの男たちが家の中に押し入ってきて、若い女がさらわれてしまう。
ジャンルとしてはサスペンスなのだけれど、正直追われている最中にほとんどストーリーが進まない点が見ていて辛い。そしてサスペンスも大して面白くない。ラストの展開はそこそこ面白いが、そこに至るまでの70分くらいの中に無駄が多すぎる。頑張れば、半分以下の長さにできる映画だと思う。
田中誠監督『雨の町』(2006)は安田顕と成海璃子に注目しよう
久しぶりに見つけたホラー系映画の良作。ただ、ホラー的要素は薄く、さほど怖くはないので、ホラー嫌いも安心して見られる。その代わり、ミステリー、サスペンス映画的な要素が強いのと、冒頭にちょっとばかし性的に過激なシーンがあるので苦手な人は注意が必要かもしれない(とは言ってもほんのちょっとだけど…)。
どこかの映画レビューで「日本版ペットセメタリー」と書かれていたが、ストーリーはまさにそんな感じである。ただ本家ペットセメタリーよりも、もっとシンプルな物語構造なので、自分はちょっと(脚本的に)薄いかなと感じてしまった。
特に真木よう子が演じる役場職員のヒロインは、たいして過去の掘り下げもされず、また映画内の事件ともほとんど絡まず、主人公とくっつくので、ご都合主義的な登場人物に見えてしまうのが残念だ。
あとはゾンビ的な子どもたちの造形、例えば攻撃手段なんかももうちょっと工夫できたんじゃないかと思う。とにかく、設定とか脚本が甘い映画だという印象を持った。
一方で演出面はほとんど文句がつけようがないほど素晴らしい。役者の演技や、照明、ロケーションとどれをとってもプロの仕事だと思う。
役者の中では、冒頭の安田顕が見事にハマっていた。正直安田顕のこんなにうまい演技を見たのは初めてだった。かなり個性的な医者の役を演じているのだがまったく違和感が無いのである。
他には出演時間は短いものの、光石研や役場の男性職員たちも良い味を出していた。この田中誠という映画監督の作品は、大昔に鳥肌実の『タナカヒロシのすべて』を見て以来だけど、役者の動かし方が素晴らしいという印象を持った。
この映画の一番キーとなる役柄は成海璃子で、この成海璃子と主人公の関係の微妙さ、曖昧な描き方がこの映画の一番の核になっているように見えた。この映画は、この時代の成海璃子の素晴らしさを再確認するというだけでも見る価値のある映画だと思う。
この映画は95分とかなり上映時間は短いのだが、「100分切る割に、こんなに内容が濃い」というタイプの作品ではなく、ストーリー的には比較的淡白なのだが、見終わった後に後を引くというか、映画が終わってから何度も噛み締めたくなるような、そういう作品だと思う。
映画スター、死んでる人、生きている人
不謹慎な話だが、昔の映画界で活躍した役者のうち、誰が死んだか死んでいないのか分からなくなってきている。
先日渡瀬恒彦が死んだと聞かされたと聞いたとき、「兄に続いて弟も逝ったのか」と感傷に浸っていたのに、兄の渡哲也が今も普通に生きていると聞いて驚いた。誰か別の役者と勘違いしていたらしい。多分高倉健か菅原文太と間違えたのだろう。
あと調べたら、三國連太郎もすでに死んでいる。これも全然実感が湧かない。
実感が湧かないと言えば、田中邦衛が今も生きているということもそうだ。地井武男が死んでいて、田中邦衛が生きているというのは『北の国から』を思い浮かべるとなんだか変な気分になる。
緒方拳と山崎努はなんとなく似ているが、緒方拳はすでに亡くなっていて山崎努はいきている。
山城新伍と梅宮辰夫、松方弘樹のうち、いまも生きているのは梅宮辰夫だけ。
そうかと思えば、加山雄三と千葉真一あたりは最近でもよくテレビで元気な姿を見かける。
人間何歳まで生きられるのか分からないってのは当たり前のことだけど、かつての映画スターがここ5年くらいで集中的に亡くなっているので、本当に混乱する。
祖母が好きな『天才!志村どうぶつ園』を私が嫌いな理由
久しぶりに実家に帰って祖母に会って話したら、よく見るテレビ番組の話題になった。なんでも祖母の最近の一番のお気に入りは『天才!志村どうぶつ園』で、見ながらよく泣くのだという。それを聞いて「ふーん」と曖昧な相槌を打ったのだが、内心では「どうして、そんなくだらない番組が好きなのか」と呆れ果てていた。
『天才!志村どうぶつ園』は最も俗悪なテレビ番組のひとつだと思う。なぜなら私が嫌いなテレビ番組の要素をほぼすべて揃えているからだ。過剰なテロップ、過剰なナレーション、VTR中ワイプに芸能人の顔を映すところなど、本当に俗悪な演出ばかりだ。
そして見るに堪えない一番の原因は、あの出演者たちの善良な演技である。志村けんを含め、他のバラエティ番組では際どい下ネタや毒舌で売っているような芸人たちも、あの番組では優等生的なことばかりを言う。みんなあの番組では意図的に毒を抜いて喋っている。それがこの番組の視聴者たちの自意識をそのまま表しているようで気持ち悪い。
「動物を飼っている人に悪い人はいない」なんて、ペットを飼っている人はよく言うが、もちろんそんなことはあり得ない。それはうぬぼれた自己認識をそのまま自分と共通項を持つ他者一般に投影しているだけだ。
そもそも動物を買うという行為自体、「本当に動物のためになるのか」と疑問視されて然るべきなのだが、その事に全く考えの及ばない人たちが善良であるなどということがありうるだろうか。
私の判断では、『天才!志村どうぶつ園』という番組は、そういったことに対する「反省」の量・質が他の番組と比較して圧倒的に足りていない。というか、そういった「反省」を視聴者に意識させないとめに、あえて善良な作りをしている。それが本当に気持ち悪い。
祖母のような老人や子どもたちにとっては、そういった無反省や善良さが魅力なのだろうが、ああいう番組は視聴者をバカだと思ってなければ作れない。そういう番組を身内が好き好んで見ていると考えるといたたまれない気持ちになる。
「電通の先輩が、『CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ。この会社にいる時点で普通ではないと自覚しろ。世間にはおそるべき量のおそるべきバカがいる。そしてそれが日本の「普通の人」だ』って言ってたの、一番役に立ってる教えの一つだ」
『天才!志村どうぶつ園』は、純粋に、こういう考え方に則って作られたテレビ番組の典型のように私には見える。