陰キャ/陽キャは、そこまで悪い言葉ではないのかもしれない

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 陰キャ(陰キャラ)/陽キャ(陽キャラ)という言葉に対しては、初めて聞いた時から不快感をもっていたのだけれど、最近はそれほど酷い言葉ではないのかもしれないと思い始めた。

 

 

 というのも、陰キャ/陽キャという言葉によって説明されているのは、各個人のキャラが陰か陽か、暗いか明るいかであって、心そのものが暗いか明るいかではないのである。

 

 そう考えると、根暗/根明という言葉の方が、陰キャ/陽キャよりよっぽど酷い言葉のように思えてくる。なぜかというと、キャラというのは、基本的に変更可能なものとして想定されているが、根暗/根明という言葉は心の根本的な部分を指し示しているので変更不可能なものとして想定されているからだ。

 

 根暗に生まれついたものは、いくら努力したところで根暗であるし、逆に根明に生まれついたものは、どんなネガティブな出来事に遭遇したとしても根明なのである。そう考えると根暗/根明というのは、生まれつきの階級制度のようなものであり、現代日本のカースト制度と言ってもいいのかもしれない。

 

 実際、今の日本社会がコミュ力至上主義であり、恋愛はもちろん、就職などでもコミュ力の有無によって結果が大きく左右される仕組みになっているという認識は、多くの人たちに共有されている。だから根暗/根明という言葉がこの社会の強者にとって、非常に都合の良い言葉だということは容易に想像できる。

 

 一方、陰キャ/陽キャのキャラが個人の努力や工夫によって選択可能であるなら、一時的に陰キャとして認識されているような人物でも、意図的に「陽」的なふるまいを続けることによって陽キャとして認識される可能性がある。そう考えると、陰キャ/陽キャという言葉は、根暗/根明に比べてよりポジティブな言葉としてとらえることが出来る。

 

 ただ問題は今の若者にとって、キャラというものが、運命論的なものとして考えられているのか、あるいは選択可能なものとして考えられているのか、ということであろう。キャラを運命論的なものとして捉えている人間が多数な社会は、より固定的でカースト的な社会である。一方、キャラを選択可能なものとして捉える人間が多数な社会は、より流動的で立場が入れ替えが容易に起こりうる社会と言える。

 

 コミュ力カースト社会は、上位にいるものにとっては落ちる心配をしなくて良いので楽だが、下位にいるものにとっては上昇する可能性がほとんど無いので地獄である。一方、流動性の高い社会は上位のものでも簡単に下位に転落する恐れがあるが、下位の者が努力や工夫次第で上昇できるという点では希望がある。つまり、両方とも一長一短で、どちらが良いかと簡単に判断を下すことはできないのだ。

 

 ただ現状のように、コミュ力についての自己評価が低い人間、対人関係に何らかの問題を抱えている人間が多くいる社会では、後者の流動的で立場の入れ替えが容易に起こりうる社会の方が適合的なように思える。そういう意味で、根暗/根明という言葉が過去のものになり、陰キャ/陽キャが台頭していることは歓迎すべきことなのかもしれない。