法と規範

自転車の罰がきびしくなったという話。

 

ちゃんと調べてないからアレだけど、実際に調べたら

厳罰のきっかけになるような事件とか事故とかあるのかもしれない。

 

そういう事件とか事故には、やっぱり被害者がいて、そういう

被害者とかの意見を汲み取る形で、多くの法律が作られている

ということはなんとなく想像ができる。

 

だけどそういった事件や事故は、日本中で一年のうちに

星の数だけ?起こっていて、そのたびに罰則を強化するような

法律が作られたら、法でがんじがらめになってしまう。

 

だから法を作るような人間は多くの場合、そういった被害者の声を

適宜無視して、法から社会を?実生活を?守っているのだろうけど、

それでも今回の自転車の件のように、法は強化される。

 

ルーマン(社会学者)は共同体の秩序を乱したと、共同体のメンバー

が判断したとき、秩序をみだした人間にサンクション(罰則)

を与えられるのだ、と説明した。

ほぼ、うろおぼえだけど。

 

サンクションが発展して法になるということを言っていたけど

法とサンクションの境界ってどこにあるのだろうか。

 

どこに境界を設定すれば世の中はより快適になるのだろうか、って

ことを自転車の例は考えさせる。

 

だってやっぱり今回の厳罰化は、おおくの人間が望んだこととは到底

思えないわけで、世の中をよりよくするには法を作ればいい!って

素直に考えちゃう人が多くなっているんじゃないかって不安に駆られる。

 

こういうのってたぶん、リベラル的な発想だとおもうんだけど、

左翼的だといっぱんてきにみなされているような人の多くが

厳罰化にわりと素朴に賛成しているのを見ると、なんだかよくわからなくなる。

 

法を作るって、罰を強化するってそんなに大事なのか、いまいち分らん…