非当事者という立場からの入れ墨問題に対する見解

 入れ墨に関する話題は新聞の記事にされるたびに大きな関心を集める。だが実際のところ、私たちのほとんどがこの問題に対して当事者の立場にはない。私も体に入れ墨を持っている人が身近にはいないし、そういった人々と身近に接するような環境に身を置く予定も今のところ無い。

 

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 それでも、この問題に対する関心が全く無いわけではなく、話題に挙がるたびにあれこれ考える。そうしてたどり着く結論はいつもきまってやや保守的なものになる。入れ墨を積極的に肯定する気にはなれないが、頭から否定する理由もない。だから自分は入れ墨に対する意見を保留している、ということになるといったところか。

 

 自分の意見がどちらかというと保守的なのは理由がある。なぜなら入れ墨に否定的な人たちは特別な状況が無ければ、入れ墨に対する見解を陳列するようなことはまずない。対して、入れ墨を露出させている人たちは、公然とそれらを晒すことで、入れ墨に対する肯定的なメッセージを常に発信していることになる。この意見表明の機会の非対称性が、自分にとっては不快なので入れ墨に対する認識は否定的なものにならざるを得ない。

 

 自分の身体を自分の意志で改変して良いかというのは、現代社会においては一般的に、自己決定権に基づいて肯定されている。だがそこには常に倫理的な問題が伴う。というのも、身体改変を突き詰めると、そこには自殺や、安楽死を認めるか否かという究極的な問題が立ち現れるのであり、身体改変を許容できる人でも、自殺や安楽死を許容できない人は少なくない。入れ墨を入れる=身体の改変をするということは、極めて倫理的な問題を孕んでいるにもかかわらず、現実にはそれが公衆の場でカジュアルに肯定されている。このことが、入れ墨反対派だけでなく、私のような態度を保留している人々の、入れ墨に対するある種の不信を生み出している。

 

 入れ墨を入れるか入れないかは個人の自由だ、という入れ墨賛成派の意見は本当にその通りだ。そしてこういった個人の身体の自由は、他人の権利を侵害しない限り十分に尊重されなければならない。しかし、入れ墨賛成派以外の人々に入れ墨を見るか見ないか、という選択肢が与えられているわけではないということも考慮に入れる必要があるだろう。「入れ墨を見ない権利」が存在するという意見はあまりにも極端だが、入れ墨を持つ人の側に、入れ墨を持たない人たちへの一定の配慮が要請されるということは肯定されても良いのではないか。

 

 以上から、私は入れ墨に対して保守的な意見を持っている。露出していない部分の入れ墨に関しては、完全に個人の自由だが、露出している部分の入れ墨に関しては、入れ墨を持つ側が状況を判断して、覆い隠すなどの措置を行うことが必要だと私は考える。

 

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