流行に乗れなかった作品とその理由を考えてみた

流行った作品に乗れなかった理由についてあえて書き出してみると以下のようになる。

 

●流行に乗れなかった作品とその理由

パフューム、初音ミクなど

→機械音っぽい曲が苦手だから。初音ミクには最初から最後まで馴染めなかった。初音ミクの声は他の楽器の中に埋没している気がする。人間の声のように、他の楽器から浮き出て聞こえない。人間の声を他の楽器と同列に扱うことが耐えられないのだと思う。同じような理由でパフュームが苦手。

 

デスノートバトルロワイヤル、最終兵器彼女など

→日常と非日常、普通の人と狂人の区別の無い作品についていけない。極限的な環境に放り込まれた人間が、非理性的な行動に走るということに共感できない。

 

ロード・オブ・ザ・リングパイレーツ・オブ・カリビアンなど

→社会や道徳についての考察が不足していると感じる。高い知能を持った生物が人間と共存しているような世界や魔法を使える世界は、現実の世界とは異なる道徳や倫理があってもおかしくない。しかし、その道徳や倫理への言及があまりにも不足していたり、あまりにも突飛な道徳や倫理が許容されていると受け入れられない。

 

三谷幸喜堤幸彦の映画

 →人間をキャラクターにあてはめて描いている作品が苦手。そしてそういった人物たちのノリによって物語が展開していくという流れ。

 

●結論

すごく雑にまとめると私は人間性とか社会性が欠落した作品が苦手なのだと思う。機械に対するフェチ感のようなものはなく、人間と機械は厳然と区別されるべきだと思っている。また、日常性を取り払って殺人ゲームが展開される作品も好まない。戦争状態には戦争状態なりの秩序が存在するわけで、それを無視してひたすら殺戮が展開されていくような世界観は受け入れられない。そしてファンタジーのような非現実的な世界観の物語において、その登場人物の道徳や倫理が十分に考察されない作品も苦手だ。最後に人間を型にあてはめて描いている作品も苦手だ。

 

それでは人間性や社会性のある作品って一体何と聞かれると困るのだが、最初に思い浮かんだのは押井守の名である。例えば『機動警察パトレイバー』は、バブル経済がはじけなかった仮想の日本で、土木作業用ロボットを用いて警察の業務を行うという設定の物語である。この作品では警察の特車二課という部署に所属する登場人物たちの日常が描かれており、それを乱すものとして様々な犯罪者が登場し、主人公たちがそれを解決していく。またこの社会の在り方に言及する重要人物として、特車二課を統括する後藤というキャラクターが登場する。後藤のような登場人物が自分たちの世界や社会に言及することで、『パトレイバー』は非現実的な設定を持ちながらも、荒唐無稽なファンタジーにはならずにある程度説得力をもった物語として描かれている。

 

ただし押井の作品の中には、娯楽性と社会性のバランスという点でかなり危ういものがある。押井が輝くのはアニメ作品だけで、近年のアニメ映画や、実写映画などのそのほかの媒体では、あまりそのバランスが発揮されていないと感じる。しかし、押井が日本のクリエイターの中では、抜きんでた存在であることは間違いないと思う。ただ、日本ではそもそも社会派娯楽作品というジャンルが成立しないのかもしれない。

 

その点アメリカの映画やドラマというのは恐ろしい。アメリカのメジャーな作品というのは、何らかの形で社会とつながっている。まるで、社会派で無い作品はアメリカには存在しないとさえ思える。どんなジャンルのアメリカ映画であっても、それはアメリカで作られたという客観的な事実よりも、アメリカという社会に言及している点の方がアメリカ映画にとっては重要なのだと私は思う。