逃亡者としての殺人犯の日常 市橋達也『逮捕されるまで―空白の2年7か月』

 

逮捕されるまで 空白の2年7ヵ月の記録
 

  

図書館でたまたま見つけて読み始めたら、ハマった。1時間ほどで読み終わった。面白かった。

犯罪者手記というジャンル

犯罪者の手記は市橋以前にも多く出版されている。有名なものでは、連続ピストル射殺事件の犯人、永山則夫による『無知の涙』などがある。また、最近では元少年Aの『絶歌』の出版が話題になった。私自身はどうかというと、これまで犯罪者の書いたものに特別な興味を感じなかったし、読んだこともなかった。だから、なぜそんな本が売れるのか、全く理解できなかった。しかしこの市橋達也の著作『逮捕されるまで―空白の2年7か月』を読んで考えが変わった。犯罪者の手記は、単なるノンフィクション小説にはない独特の魅力がある。そのことに気付かされた。

 

犯罪者手記の魅力

犯罪者手記の魅力、というか犯罪者手記を読むことの魅力は、書き手の意図を想像しながら読むことにあると思う。市橋の『逮捕されるまで』には、リンゼイ・アン・ホーカーさんに対する殺人を反省する文章も含まれている。そのような文章に出くわしたとき、書き手がどういう目的でこういった文章を書いたのかを読み手は考えざるを得ない。罪に対する後悔・反省を100%信じることはできないのはもちろんだが、全てを自己弁護のための嘘と断定して良いものか、と考えてしまう。

 

逃亡者にとってのお遍路

例えば市橋は逃亡中、四国でお遍路に言ったと書いている。お遍路を回ることによって、リンゼイさんを生き返らせることができるかもしれないと考えた、というのである。私はこの証言に関して、嘘であるか本当であるかは別にしても俗悪だと思った。そんなことをやっても彼自身の罪が消える訳ではないし、殺された女性の遺族が喜ぶわけではない。映画『死国』の影響を受けたというが、自分の頭で考えればフィクションと現実の違いくらい分かるだろう。私はこの文章を読んで、この行動は十中八九、自分が逮捕され裁判にかけられた時に、少しでも自分の刑を軽くするための策だと思った。

 

素顔の市橋

 一方で、逃亡者としての市橋はいたって普通の青年であり、むしろ行動力が高く、良識的であるという印象さえ受けた。例えば、ホームレスの人々に対する視線などは、同世代のそれに対しても温かい。書いてあることが事実であるとすれば、彼はホームレスの人々から服や食べ物をもらっている。こういったことはホームレスの人々と一定の信頼関係を結べなければ不可能なことであるし、彼らに差別的な感情など抱いていたら交流さえ難しいだろう。また逃亡中に英単語のCDを聞いたり、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のペーパーバックを購入して読むなど、知識欲は人並み外れたものがある、と感じた。

 

 殺人犯のパーソナリティ?

市橋の書いた文章からは殺人者特集のパーソナリティにようなものは何も感じなかった。これはそもそも殺人を犯した人間でも、それが文章に表れるとは限らないという可能性もあるし、市橋がある程度知能が高いが故にその異常性を隠し通せるという可能性もある。というか、そもそも殺人犯に特有のパーソナリティみたいなものってあるのだろうか?市橋は確かに殺人を犯しているけど、手記を読む限り市橋のような性格のような奴はどこにでもいる。ではそういった人々のすべてが殺人犯予備軍かというと、それも違うんじゃないかと私は思う。

 

例えば、自分の愛する子どもを殺された男がいたとする。ある日、目を覚ましたら、その子供を殺した犯人が手足を縛られた状態で横たわっていて、男の手にはピストルが握られている。この場合、引き金を引いて犯人を殺すことは異常か、正常か。私は犯人を殺すという選択をした人を異常だと思わない。殺人が正当化される場合もあると私は思う。自分の愛する者を殺した犯人に手を下すという行為は、状況によっては、正常なことではないだろうか。

 

では市橋の犯行時の状況がそれその状況にあてはまるかというと当てはまらない。市橋の犯した罪は計画的で、暴行の結果相手が死んでしまうことは十分に予想可能だった。だから市橋の殺人は、ついうっかりでも衝動的にでもない。市橋ははっきりとした目的を持って殺人を犯した。その目的というのはリンゼイ・アン・ホーカーさんをレイプすることだった。市橋は殺人に至るまでの状況を自ら作り出し、そうして実際に実行に移した。

 

 ふつうの人々が殺人を犯さないのは殺人衝動を持っていないからではなく、殺人に至るまでに大きなハードルをいくつか越えなければならないからだ。市橋はそのハードルを越えて、殺人を遂行したという点で確かに異常なのである。しかしその異常性が日常生活の中で発露するかというとそうではないし、人を殺したあとの市橋もまた逃亡中にその異常性を発露することはなかった。だから市橋に犯罪者としてのふるまいを期待してこの本を読む人は失望するだろうし、いくつかのレビューにみられるようにこの本に書かれていることを欺瞞的だと思うかもしれない。だけど私はこれは本当の市橋の姿なのだと思った。

 

まとめ

殺人を実行する人間と殺人を夢想する人間との間には大きな隔たりがある、と私は思う。だけどその隔たりは日常生活の中では観察不可能なもので、日記などからその異常性を推察することはできない。この手記を読む限り、逃亡中の市橋は良識的であったがそれはおそらく嘘ではない。殺人を計画し実際に実行する人間の異常性を持った人間でも、日常生活においては魅力的であったり、誰かに好まれるような要素を持っていたりする。でも殺人を遂行する回路のようなものは、日常生活を健康的に過ごす回路とは別に存在していて、何かの拍子にそのスイッチがオンになって、殺人という形で露見する

 

しかし、こういった考えが正しいとしたら、刑務所の矯正施設としての役割って何なんだろうか、と疑問になる。日常生活を送る回路と殺人を遂行する回路とが別々に存在しているならば、たとえ刑務所で規則正しい勤労生活を送ったとしても、それによって人を殺すという性質が改善されるわけではない。もちろん、刑務所には他に様々な役割もあるだろうが、犯罪を犯す根本的な性質が変わらなければ、その犯罪者は刑期を終え刑務所を出た後に、再び同じような犯罪を繰り返してしまうだろう。市橋の手記を読んで、そんなことを考えた。