ネトウヨの分析

  ネトウヨという呼称は、ネット上で一般的に使われる用語となったみたいですが、正直なところ、自分のブログなどで使うには抵抗があります。ネトウヨとは一体何なのか、ということを自分自身よく分かっていない。あるいは、ネトウヨを単語を見るたびに、一体これは何を指しているのか、をいちいち考えなくてはいけないので面倒なのです。

 そこで、ネトウヨとは一体何なのか、自分なりに整理してみました。

 言うまでもないことですが、ネトウヨは自分のことをネトウヨとは呼びません。ネトウヨというのは、右翼的な発言をする人に対する蔑称であり、それは批判される側の客観的な事実や属性を指しているのではなく、批判する側の主観的な視点からの侮蔑です。またそれは、戦略的にレッテル張りとして用いられることもあります。

 批判する側の視点から見て、ネトウヨという蔑称を使うときの対象というのは全部で3つあると思います。それは第一に、特定の愛国的な発言に対して、そして第二に愛国的な言動をする特定の人物や組織に対して、そして第三に特定の認識的枠組みに対してです。もちろんこれらはきっちりと分けられるものではないうえ、ある発言や人物が右翼的かどうかは批判者の主観的な視点に基づくので、注意する必要があります。

 ネトウヨ認定は、型にはまった発言や人に適用されます。一部の左派にとって、彼らは危険なものと認識されていますが、実際のところ、実社会に対する影響力はほとんどありません。一部の行動派を除けば、ネトウヨの議論は、コミュニティの内部に向けられたものであり、自閉しているためです。

 ネトウヨに対する糾弾は、多くの場合、左派が自らの正統性を主張するために行われます。現在において、右翼を牽制することが、左派のアイデンティティの確立において、非常に大きな位置を占めています。それはいわゆる在特会に対するカウンター的な組織の行動や、左派的な文化人・知識人の言動を見れば明らかでしょう。

 一方、ネトウヨの場合は自らのアイデンティティを支えているのは、中国や韓国といった東アジアの国々の政治的な動きに対するカウンターです。ネトウヨはそもそも日韓ワールドカップに起源を持つと言われるように、中国や韓国の過剰な反日運動に対する反動として生まれた歴史を持っています。左派が今では右翼に対する牽制を最大の行動原理にしているように、ネトウヨは中国や韓国に対する反動を行動原理としています。

 それゆえ、中国や韓国の反日運動が沈静化すれば、ネトウヨは行動原理を失いますが、現状を鑑みる限り、そのような見込みはありません。なぜなら中国や韓国においては、反日運動が国家というシステムを維持するために用いられているからです。この制度を変更させるようなインセンティブが中国や韓国にはありません。中国や韓国で反日活動が自発的に生成することを止めるのは不可能です。

 ここまでのそれぞれの関係についてまとめます。中国や韓国では、反日活動の自然発生がシステムに組み込まれているために、日本の動きにかかわらず、定期的に反日デモなどの反日活動が起こります。これに依存しているのが、日本のネトウヨの活動です。彼らは、中国や韓国の反日活動から養分をもらっているわけで、反日活動が無くなれば行動原理を失いますがその見込みはありません。そしてネトウヨの活動に依存しているのが、左派的な思想を持った人々です。

 しかし、このような依存関係は徐々に変化する傾向が見られます。ネトウヨに関して言えば、批判対象の多様化が進んでいると言えます。例えば、朝日新聞であるとか、在日朝鮮人・韓国人などを叩くのは基本ですが、最近では、AKB48電通など反日とは直接的に結びつかない組織までもが批判の対象となっています。このように中国や韓国への依存度は相対的に減少しており、代わりに国内の組織、人物に対するバッシングが存在感を強めています。

 左派はこれとは対照的に、ネトウヨ批判への依存度を高めています。資本主義が根付いた現代においては、政策も合理主義の立場から決定されるので、必然的に理想主義的、あるいは設計主義的な思想の影響力は減少します。実社会への影響力を失った左派が、ネット内に居場所を求めるのはごく自然な流れといえます。左派にとっては幸いなことに、ネトウヨの多くは論理的に物事を考えて意見を表明しているわけではないので、ネトウヨを論破することは難しくはありません。

 ただネトウヨを論破したからと言って、ネトウヨが改心するわけでも、その数が減少することもないでしょう。だからネトウヨの発言が実社会において影響力を持たないのと同様に、ネトウヨ批判もそれほど意義のある行為とは言えません。実際には、地道に政策提案や、政治家に要望することのほうが、よっぽど社会にとって有意義な行動と言えるでしょう。

 それでは、冒頭の問題設定に戻って、ネトウヨとは一体なんなのか、ということを自分なりに結論付けるとすれば、それは「必要悪」だと言えます。ただし、中国や韓国の反日活動も「必要悪」だと言えますし、左派のネトウヨに対するカウンターも「必要悪」です。この世界は「必要悪」に対する反応の連鎖によって構成されていて、ネトウヨもその一つの過程に過ぎないのなのです。

 現代の問題の多くは、政策的な決定が有効な意味を持たないことの方が多いです。なぜなら現代の社会は、多様な価値観を持った個人が、自身の満足度を高めるために、バラバラに行動しており、制度によって個人の行為に一定の方向性を与えることが難しいからです。ネトウヨ問題もそのような問題の一つと言えます。

 ネトウヨの何が問題なのかというと、それは西洋的な美醜の観点からすれば、圧倒的に美しくないということに尽きます。ただし、美しいか、美しくないかということと、社会において一定の機能を果たしているかどうかは全く別の次元の話です。美しくないものであっても、社会において一定の機能を果たしているものはたくさんあります。

 ネトウヨもある種、ノンポリ的市民の心の声を代弁することで一定の役割を果たしています。それは確かに美しくはないのですが、定期的に韓国や中国の理不尽さについて反発することで、市民の鬱憤が蓄積して爆発するのを防いでいるとも言えます。ネトウヨを捉えるときは、西洋的な美醜の観点からではなく、その機能の点から捉える事が肝要だと思います。