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ゲームの自由度って何だろう

ゲームの自由度っていったい何なのだろう。自由度が高ければ高いほど良いような風潮だけど、最近はなにかモヤモヤしたものを感じる。日常的にニコニコ動画でゲーム実況を見ているのだが、自由度が高いと一般的に言われているゲームでも、すぐに自由度の壁みたいなものにぶち当たる。そして、自由度が高いといわれているゲームほど、それへの落胆も大きい。

 

例えば『マインクラフト』というゲームは、広大な世界が広がっていて、そこでプレイヤーはすべての自由を与えられている気がする。でもこのゲームの中心が「クラフト=作る」であるということが分かると、高い自由度に対する評価は途端に失われてしまう。そして、できることよりもできないことの方が気になって仕方なくなる。

 

『マインクラフト』の場合、建物を作った後にすることがなくなってしまうことが問題だ。もちろん、建物自体にいろいろな仕掛けを作ることは可能だが、それらはあくまで物理的なものであって、その建物で何か社会的な活動ができるというわけではない。コンビニのような建物を作ることは出来るのだが、実際にそこで物を売買することができるわけではないのである。

 

『マインクラフト』の自由度は結局のところ「何でも作れる」ことに限定されていて、それ以外の自由は与えられていない。最近よく取り上げられている『マリオメーカー』や『ドラゴンクエストビルダーズ』もそれと同様だ。「ゲームを作れる」タイプのゲームは一見自由度が高いようで、すぐ自由度の壁にぶち当たってしまう。ゲーム実況を見ているだけでもそう感じるのだから、実際にプレイしている人はもっと強くそのことを感じているだろう。

 

それに比べて、自由度が高いといわれているもう一方ジャンル、『グランドセフトオート』や『Fallout』などのオープンワールドのシリーズは、序盤では自由度の限界をそこまで感じない。もちろん受けることのできるタスクをほとんど消化してしまった後は、このゲームには自由度などは全くないのだと気づくのだが、自由度が無い、と感じるまでの期間が相対的に長いと感じる。

 

よくよく考えれば、オープンワールド形式のゲームにありがちな、依頼を請け負うということ自体、自由度の大きな枷(かせ)となっているのだが、請け負える依頼を選べることが、制限を感じにくくしている。いくつかの候補から自分がすることを選べるというのは、本来の意味での自由度とはかけ離れているが、それらは多くのゲーマーにとって、ゲームの自由度を高めるものとして認識されている。

 

『マインクラフト』を見て分かるようにゲームの自由度というのは、強調されればされるほど、その限界のほうが目立つ。だからゲームの自由度を演出するのは難しい。一方でオープンワールド形式のゲームが持つ自由度は、現実の自由度にはまったく届かないが、それでも自由度の高さという評判を獲得するには十分役立っている。ゲームの自由度という概念は複雑だ。