『明日、ママがいない』で三上博史を見直す

 日曜日、起きたら話題の『明日、ママがいない』を再放送していた。用事のため外出する必要があったので、少ししか見ることができなかった。テレビをつけて、まず目に入ってきたのが三上博史だった。私は以前から三上博史には否定的な意見を持っていた。というのも彼の演技がオーバーすぎると感じていたからである。しかし今回このドラマを見た限りでは、そういう印象は受けなかった。もちろん彼の演技は、ある種のリアリズムとはかけ離れているのだけれど、今回はそれを不快には感じなかった。むしろ心地よいとさえ感じた。それはなぜなのか、ということを自分なりに考えてみた。

 私が三上博史好意的に受け止めることができた理由は、彼の「おかしな」演技が相対的に、自然なものと感じられるほどうまかったからである。相対的に、というのは最近のテレビドラマに出てくる俳優たちと比較して優れている、という意味だ。最近話題になった『半沢直樹』や『リーガルハイ』によって、キャラクターを重視した演出が一般に受け入れらるようになったが、こういった傾向には個人的に疑問を感じていた。例えば堺雅人であれば映画『南極料理人』で見せた、淡々とした青年の演技のほうが魅力的だし、香川照之であれば『ゆれる』で見せた嫉妬深い兄のほうが、役作りがしっかりしていた。

 極端なキャラクターを演じると、どうしても顔の表情や声の抑揚に頼ってしまわざるを得ない。結果として演技は、不自然なものとなる。それは堺や香川のような、名優にも当てはまる。しかし、この法則が三上博史という俳優には当てはまらない。三上博史は、誰を演じても三上博史のままなのだ。

 『明日、ママがいない』はその露悪性が悪影響を与えるということで問題になっているが、正直なところ、ここまで素晴らしい悪を見せられると社会的影響などどうでもいいことだと思った。