捕鯨問題

捕鯨問題。日本国内では、西欧文化による辺境文化の圧殺という見方が成立しているが、海外では事情が違う。文化人類学の観点からすれば、特定の国の文化を、西洋的な基準で批判したり、排除したりすることはあってはならない。当然、アメリカやフランスでも、文化人類学という学問は成立しているのだから(レヴィ・ストロースとか有名)、西欧中心主義を相対化するような見方はそれぞれの国にも存在するはずである。しかし、それが捕鯨問題に限っては適用されない。これはどういうことか。

とはいっても、韓国の犬食文化なども批判の対象として認識されているようなので、捕鯨だけが特別というわけではない。ようするに日本や韓国のような西欧の生活スタイルをある程度採り入れた国は、鯨や犬を食べなくても生活を維持することはできるのだから、わざわざ野蛮な行為をする必要はないじゃないか、ということらしい。

捕鯨反対派の意見は圧倒的に間違っているけど、無視すれば良いというものでもない。たとえその背景にキリスト教の思想があるとは言っても、海の共同利用という観点から言ってもクジラの乱獲は許されることではない。だから科学的根拠を示し続けることが求められる。

今は捕鯨禁止の声が強いようだが、日本は辛抱強く説得を続けて、世界の流れが変化することを待つしかない。反捕鯨派に絶対的な根拠はなく、「クジラは知的生物である」という狂信的な幻想が、現在の風潮を支えていることを考えれば、今後捕鯨をめぐる世界の趨勢が変化するチャンスは十分にある。あとの問題は国民の捕鯨への意識をいかに保てるかに懸っている。国際的な情勢よりも、国内のクジラに関する文化の消滅を我々は憂うべきなのかもしれない。