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子育てを公共的行為とみなすことの誤り

社会問題 社会学

 子育てと社会の持続性を並列的に考えるような文章を最近になってよく見かけるようになった。未来を担う子どもたちを育てる親をもっと政策的に優遇するべきという主張である。完全に間違っているとは言えないが、最近はこういう思想が行き過ぎているように感じる。子育ての私的な営みとしての側面があまりに軽視されていると思う。

 子育ての公共性は、あくまで結果であって、親は社会を支える人材を生み出すために子育てをしているんじゃない。老後の面倒を見てもらいたいから子育てしたいという人もいるだろうし、子どもがいないと社会から白い目で見られるから、という受動的な理由で子育てしている人もいるかもしれない。子を産み育てる理由は、人それぞれだが、社会のために子育てしているという人はまずいないだろう。

 それにも関わらず、政策的な話になると、とたんに子育ての公共的な側面が協調される。それは親の立場から、子育てにかかる経済的負担を少しでも軽くしたいという発想からなのだと思うが、こういうものの考え方はよくよく考えると危険だ。子育てが公共的な側面だと見なすことの背後には、公共的な利益をもたらさない人間は生きている価値がない、という思想が存在するからである。

 現在の子供のすべてが将来、社会の役に立つ存在になるわけではない。なかにはNEETになるやつもいるだろうし、反社会的組織に所属する人間もいるだろう。そういう点から考えると、子育ては公共的行為であるという考え方は二重に間違っていることになる。

 まずそれは事実認識の面から間違っていて、すべての人間が社会的利益を生み出すとは限らないのに、それを前提としているということ。そして第二にそれは規範的に間違っていて、すべての人間が社会に役立つべきという思想は、社会の役立たないもの(ホームレスや引きこもり)は排除されるべき、という思想に結論付けられること。以上の二点で、子育て=公共的行為という認識は間違っている。

 社会は子を産み育てる人間のみから成立しているのではない。子どもを産まない人たちの中にも、社会を支えている人達はたくさんいる。あるいは社会に直接貢献していない人にも生存権は保証されなければいけない。子育てを公共的行為と見なすような認識があまりにも社会に根付くことは、社会の多様性への寛容さを失わせることにつながるだろう。

 将来の社会の持続性も重要だが、それが現代を生きる我々の生きづらさを増長させるようなことは、あってはならないのではないだろうか。