読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

コンビニにおける立ち読みの是非

 コンビニの立ち読みを規制したらコミックの売り上げが増えたという記事を読んで、反感を抱いたのだが、自分はここ4・5年は立ち読みをしていない、ということに気づいた。むかしはあんなに立ち読みしていたのに、ふしぎなものである。

 今では、コンビニで立ち読みしている人たちに全く共感を抱けない。なぜ彼らは自分の立ち位置を競ってまで、立ち読みしているのだろうか。かつては自分もその一員だったはずなのだが、今の自分には全くその理由が想像できないのである。現在の自分が立ち読みをしない理由は、要は「習慣がないから」の一言に尽きるのだけれど、過去に立ち読みを習慣にしていたことも事実で、それがなんらかのきっかけで、習慣の枠から外れたのである。

 そのきっかけが分からないのだが、今の自分が立ち読みをする際に不快に感じるだろうなと思うことは、いくつか思い浮かべることができる。まず見知らぬ他人と半径10センチメートルの記事で、直立しているということが信じられない。本を読むというパーソナルな行為を、他人のすぐそばで行う。これはいまのわたしにとって相当苦痛なはずである。次に、不特定多数の人が触った本に躊躇なく手に取れるということが信じられない。潔癖ではないが、雑誌を手にとった人物が私にとって全くの他人であるという事実を前にして、その本に触れることが考えられない。とにかく立ち読みという行為は、習慣から外れたというよりは、私がとりうるあらゆる行為の選択肢の中から外れてしまったと言っていい。

 とはいえ、私は立ち読みの規制に反感を抱いた。過去も自分の習慣と今の自分とは簡単には切り離せないもののようだ。個人的な理由以外で、この規制に反対するとなると案外難しい。じっさい今の私にとって立ち読み派は迷惑な存在だ。

 近所に比較的狭いコンビニがある。以前そこで立ち読みをしているサラリーマンの横を通り過ぎようとしたとき、雑誌コーナーの向かいにある棚から、ポテトチップスを落としてしまった。なぜ私がそんな狭い通路を無理やり通り抜けようとしたかというと、入口からはいってすぐのところに、車いすの老人がいたからである。そのため私は入ってすぐ右折するしかなかった。

 サラリーマンはリュックをしょっていたが、私が通るときもその場を動こうとはしなかった。雑誌に夢中だったのであろう。そして私はサラリーマンと向かいの商品棚の間を半ば無理やり通るような形になり、商品であるポテトチップスを落とすことになってしまった。幸いポテトチップスに問題はなかったようだが、そのサラリーマンがリュックをおろして本を読むか、そもそも立ち読みをしなければこんなことは起こらなかったはずである。

 本に集中している客は他のことに注意が及ばない。だから意図せずして迷惑な存在になることがある。だから店側から利益にならないという判断が下されれば、立ち読みが全面禁止になる日はそう遠くないのかもしれない。