90分でも長いよ。『ビジター』(2012)

 ワン・シチュエーションものと、登場人物が少ない映画が苦手なので、だいぶ退屈だった。いわゆるネタバレ禁止系の映画なので、ストーリーについて深く言及しないが、まぁ、こういう結末ってあるよね。

 

 物語は事故で息子を亡くした夫婦のもとに、ある日の真夜中、見知らぬ一人の若い女が訪ねてくるところから始まる。ふたりはこの女を家の中に受け入れるが、女が夫の素性を知っていたことから、夫婦の関係がぎくしゃくしだす。そんな中突然、ガスマスクをかぶった黒づくめの男たちが家の中に押し入ってきて、若い女がさらわれてしまう。

 

 ジャンルとしてはサスペンスなのだけれど、正直追われている最中にほとんどストーリーが進まない点が見ていて辛い。そしてサスペンスも大して面白くない。ラストの展開はそこそこ面白いが、そこに至るまでの70分くらいの中に無駄が多すぎる。頑張れば、半分以下の長さにできる映画だと思う。

 

 

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田中誠監督『雨の町』(2006)は安田顕と成海璃子に注目しよう

 久しぶりに見つけたホラー系映画の良作。ただ、ホラー的要素は薄く、さほど怖くはないので、ホラー嫌いも安心して見られる。その代わり、ミステリー、サスペンス映画的な要素が強いのと、冒頭にちょっとばかし性的に過激なシーンがあるので苦手な人は注意が必要かもしれない(とは言ってもほんのちょっとだけど…)。

 

 どこかの映画レビューで「日本版ペットセメタリー」と書かれていたが、ストーリーはまさにそんな感じである。ただ本家ペットセメタリーよりも、もっとシンプルな物語構造なので、自分はちょっと(脚本的に)薄いかなと感じてしまった。

 

 特に真木よう子が演じる役場職員のヒロインは、たいして過去の掘り下げもされず、また映画内の事件ともほとんど絡まず、主人公とくっつくので、ご都合主義的な登場人物に見えてしまうのが残念だ。

 

 あとはゾンビ的な子どもたちの造形、例えば攻撃手段なんかももうちょっと工夫できたんじゃないかと思う。とにかく、設定とか脚本が甘い映画だという印象を持った。

 

 一方で演出面はほとんど文句がつけようがないほど素晴らしい。役者の演技や、照明、ロケーションとどれをとってもプロの仕事だと思う。

 

 役者の中では、冒頭の安田顕が見事にハマっていた。正直安田顕のこんなにうまい演技を見たのは初めてだった。かなり個性的な医者の役を演じているのだがまったく違和感が無いのである。

 

 他には出演時間は短いものの、光石研や役場の男性職員たちも良い味を出していた。この田中誠という映画監督の作品は、大昔に鳥肌実の『タナカヒロシのすべて』を見て以来だけど、役者の動かし方が素晴らしいという印象を持った。

 

 この映画の一番キーとなる役柄は成海璃子で、この成海璃子と主人公の関係の微妙さ、曖昧な描き方がこの映画の一番の核になっているように見えた。この映画は、この時代の成海璃子の素晴らしさを再確認するというだけでも見る価値のある映画だと思う。

 

 この映画は95分とかなり上映時間は短いのだが、「100分切る割に、こんなに内容が濃い」というタイプの作品ではなく、ストーリー的には比較的淡白なのだが、見終わった後に後を引くというか、映画が終わってから何度も噛み締めたくなるような、そういう作品だと思う。

 

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映画スター、死んでる人、生きている人

不謹慎な話だが、昔の映画界で活躍した役者のうち、誰が死んだか死んでいないのか分からなくなってきている。

 

先日渡瀬恒彦が死んだと聞かされたと聞いたとき、「兄に続いて弟も逝ったのか」と感傷に浸っていたのに、兄の渡哲也が今も普通に生きていると聞いて驚いた。誰か別の役者と勘違いしていたらしい。多分高倉健菅原文太と間違えたのだろう。

 

あと調べたら、三國連太郎もすでに死んでいる。これも全然実感が湧かない。

 

実感が湧かないと言えば、田中邦衛が今も生きているということもそうだ。地井武男が死んでいて、田中邦衛が生きているというのは『北の国から』を思い浮かべるとなんだか変な気分になる。

 

緒方拳と山崎努はなんとなく似ているが、緒方拳はすでに亡くなっていて山崎努はいきている。

 

山城新伍と梅宮辰夫、松方弘樹のうち、いまも生きているのは梅宮辰夫だけ。

 

長門裕之は死んでいて、津川雅彦は生きている。

 

そうかと思えば、加山雄三千葉真一あたりは最近でもよくテレビで元気な姿を見かける。

 

人間何歳まで生きられるのか分からないってのは当たり前のことだけど、かつての映画スターがここ5年くらいで集中的に亡くなっているので、本当に混乱する。

祖母が好きな『天才!志村どうぶつ園』を私が嫌いな理由

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 久しぶりに実家に帰って祖母に会って話したら、よく見るテレビ番組の話題になった。なんでも祖母の最近の一番のお気に入りは『天才!志村どうぶつ園』で、見ながらよく泣くのだという。それを聞いて「ふーん」と曖昧な相槌を打ったのだが、内心では「どうして、そんなくだらない番組が好きなのか」と呆れ果てていた。

 

 『天才!志村どうぶつ園』は最も俗悪なテレビ番組のひとつだと思う。なぜなら私が嫌いなテレビ番組の要素をほぼすべて揃えているからだ。過剰なテロップ、過剰なナレーション、VTR中ワイプに芸能人の顔を映すところなど、本当に俗悪な演出ばかりだ。

 

 そして見るに堪えない一番の原因は、あの出演者たちの善良な演技である。志村けんを含め、他のバラエティ番組では際どい下ネタや毒舌で売っているような芸人たちも、あの番組では優等生的なことばかりを言う。みんなあの番組では意図的に毒を抜いて喋っている。それがこの番組の視聴者たちの自意識をそのまま表しているようで気持ち悪い。

 

 「動物を飼っている人に悪い人はいない」なんて、ペットを飼っている人はよく言うが、もちろんそんなことはあり得ない。それはうぬぼれた自己認識をそのまま自分と共通項を持つ他者一般に投影しているだけだ。

 

  そもそも動物を買うという行為自体、「本当に動物のためになるのか」と疑問視されて然るべきなのだが、その事に全く考えの及ばない人たちが善良であるなどということがありうるだろうか。

 

  私の判断では、『天才!志村どうぶつ園』という番組は、そういったことに対する「反省」の量・質が他の番組と比較して圧倒的に足りていない。というか、そういった「反省」を視聴者に意識させないとめに、あえて善良な作りをしている。それが本当に気持ち悪い。

 

  祖母のような老人や子どもたちにとっては、そういった無反省や善良さが魅力なのだろうが、ああいう番組は視聴者をバカだと思ってなければ作れない。そういう番組を身内が好き好んで見ていると考えるといたたまれない気持ちになる。

 

電通の先輩が、『CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ。この会社にいる時点で普通ではないと自覚しろ。世間にはおそるべき量のおそるべきバカがいる。そしてそれが日本の「普通の人」だ』って言ってたの、一番役に立ってる教えの一つだ」

はあちゅう (@ha_chu) | Twitterより

 

 『天才!志村どうぶつ園』は、純粋に、こういう考え方に則って作られたテレビ番組の典型のように私には見える。

森友学園関連の話題を追って思ったこと

森友学園の件。現在まで、とくに自分から調べなくても何度となくこの話題をフォローしている人たちのツイートから情報が流れてきて、それを眺めていたのだが、一番強烈に印象に残ったのは、これを話題にしている人たちの節操の無さだった。

 

自分も数日前までは森友学園なんてまったく聞いたことが無かった人間のひとりである。この名前を最初に見たのはtwitterで、著名な学者が菅野完の呟きをリツイートしたものだったと記憶している。

 

最初から安倍総理や総理夫人と学校法人との関連性を匂わせて、炊きつける・煽るような内容のツイートが多かったのだが、具体的に総理が経営や創設に関わっているという証拠は無かった。

 

そしてその後に上げられた、彼らが関係性を示す証拠だと主張するもののほとんどが、印象操作以上のものでは無いのには、正直呆れた。

 

別に件の学校法人に問題が無い訳ではなく、取引に当たった財務省や国の体制は大いに問題視されるべきだと思うが、総理と関連付けて問題視されるべき話題であったかは疑問である。

 

あわよくば与党批判に繋げようという意図があったのだと思われるが、マスコミの食いつきは鈍かった。

 

それも当たり前で、総理との関連性で話題を広げだとして、そのことに対する十分な裏付けが無ければ取り上げたメディア自体の信用度が下がる。その点、個人がツイッターで印象操作を行うのとは全く事情が違うのである。

 

ただ、そもそも個人であれば、あるいは政権批判が目的であれば、悪辣な印象操作やデマまがいが許されるのだろうか、と疑問に感じた。あるいは、それをある程度予期しつつリツイートする人たちは全く責任を問われないのか、ということ。

 

そういうことで、自分の政治への抵抗感・嫌悪感はより一層強くなった。

優先席を使うべき人が使わないことによる不利益について

私が駅構内・車内で体験したモヤモヤ

今日、電車の中でモヤモヤしたことが2つほどあったので書いておきたい。

1つ目を事例A、2つ目を事例Bとしよう。

 

■事例A:足の不自由なおばあさんの例

ある駅で、列に並びながら乗り換えの電車を待っていた。しばらく待っていて、いよいよ電車が所定の位置に近づくと、私のすぐ後ろに並んでいた杖をついて腰の曲がったおばあさんが真後ろから私の隣に位置を変えた。そうしてそのおばあさんは、ドアが開くと、一目散に電車内に入って、空いていた一般席に座った。私たちが入ったドアは優先席の近くで、昼間の車内には空席が多くあり、もちろん優先席もガラガラの状態だったがそのおばあさんが座ったのは一般席だった。その後からヘルパーさんみたいな人が入ってきて、おばあさんの前に立った。

 

事例B:ベビーカーに子どもを乗せた3人の母親たちの例

事例Aのあとに、3人の母親が電車内に入って来た。3人ともベビーカーに赤ちゃんを連れていた。車内のほとんどの人たちは座っていて、3人分の空席もあったが、その女性3人は車両中央のドア前に陣取り、ぺちゃくちゃ喋って動かなかった。もちろんベビーカーは畳んでいないので、ドア前の空間を占有する形になっていて、そこを通る人にも、そのドアから降りる人にも邪魔になっていた。

 

モヤモヤの正体

上の2つの事例に関して私が感じた不満は「なぜ社会的弱者と言われる人々が優先席を使わないのか」ということである。健常者が障がいを持つ人々に配慮すべきだ、というの思想は優先席をはじめとした多くの福祉サービスの前提となっている。だから優先席に座るべき人が座る意思を見せないと、いろいろな不具合が起こるのだが、一般的に社会的弱者と言われる側にそういった意識が共有されていないように見える。

 

こういう指摘って障がい者や 幼児を抱えた母親とかではない立場、社会的弱者ではない立場のエゴなのか?

 

事例Aの場合、おばあさんが無理に一般席に座ろうとして他の乗客と衝突したら、双方が損害を追う恐れがある。またおばあさんの足が不自由だという情報が、後から乗る客に共有されないこともトラブルの種になりうる。その点、優先席に座ってくれれば、周りの人間は状況を早く察することができるから安心だ。

 

事例Bの場合、母親たち陣取っているドアからは乗客は容易に入ることも出ることもできないし、また側を通るにもベビーカーや母親たちのいずれかにぶつかってしまう。ベビーカーを折りたたむ必要は無いから、せめて座席の前に立つか、優先席付近にいてほしい。

それぞれ理由はあるのだろうが…

なぜ優先席を利用しないのかは、本人たちにとって正当な理由があるのだと思う。でもその正当性ははたして、彼ら/彼女らが以外の人間が耐え忍ばなければいけないリスクや苦痛の量を上回っているものなのか。

 

私には、そういった優先席を使うべきなのに使わない人たちが、周りの人間に要求している配慮の量が、社会正義から許容される量を超えているように見えた。

 

こういった主張をした場合、「優先席を使用することデメリットもたくさんある」という反論があるのは、何となく予想できるが今回の事例はそれには当てはまらないのではないか。

 

以上が今日のモヤモヤ体験でした。